五山送り火は「蛇・一・い・長刀・鈴」と昔は十山だった?幻の送り火

五山送り火
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夏の夜空に炎で描かれた文字が浮かび上がる京都の「五山送り火」は、京都四大行事のひとつです。

毎年8月16日に執り行われ、「大文字」・「妙法」などの炎の文字は、お盆に迎えた精霊を再び冥府へ返す送り火とされています。

現在の送り火は、東山如意ヶ嶽大文字山の「大文字」、松ヶ崎西山・東山の「妙」「法」、西賀茂船山の「船形」、大北山の「左大文字」、曼荼羅山の「鳥居形」の5つです。

しかし古くは、現在より多い十山で送り火が灯されていたようです。

現在の五山送り火以外には「蛇・一・い・長刀・鈴」があったとされています。

これらの送り火はどこにあったのでしょうか?

また、どうしてなくなってしまったのでしょうか?

今回は幻の送り火「蛇・一・い・長刀・鈴」について、まとめていきます。

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幻の送り火の文字と場所は?

明治以前には、現在の五山の他に「い」、「一」、「(竿に)鈴」、「蛇」、「長刀」の五山を合わせて、十山で送り火は行われていました。

これに関しては記録が残されていますので、紛れもなく事実です。

いの一番の「い」や「一」は物事のはじまりとして尊ばれる数字であるし、成長を意味する竹や澄んだ鈴の音は縁起物であり、脱皮する蛇は再生の象徴、そして長刀は魔を払ってくれます。

いずれも怨霊鎮めや死者を弔う意味合いが感じ取れますね。

 

ところが、その場所に関しては、「い」は市原、「一」は鳴滝、「蛇」は北嵯峨、「長刀」は観空寺村と、4つについてははっきりとしているのですが、「(竿に)鈴」だけはっきりとしないのです。

「(竿に)鈴」は大正初期まで点火されていました。

その場所は一乗寺だったとか、西山だったとか、はたまた、静原だったとかといろいろと言われていますが、100年も経ってもいないのに、その場所が明確ではないとは不思議なことです。

 

「い」は従来、詠み継がれている歌がある京都市左京区の向山(標高439メートル)が有力だとされていました。

しかし2018年8月、京都大学の研究チームが「い」の痕跡とみられる場所を発見しました。

ほかの場所には見られることもある、送り火に使うまきを置くスペースと推定できるような痕跡などが見当たらず、五山に共通して存在する社寺もなかったそう。

そこで周囲の山を調べたところ、向山から北東に約1キロメートルの通称「安養寺山」(同391メートル)の標高100メートル以上上がったところに、山肌を削ってつくられたとみられる平らな地形を3カ所発見。

これは送り火のまきを置くスペースに似ているといいます。

寺の痕跡のような石積みも見つかりました。

まだ断定はできないようで引き続き調査が進められていますが、これが本当に「い」の痕跡だったら素晴らしいですね!

 

なぜ現在の五山の送り火になったのか?

連綿とつづいてきた送り火ですが、これまでに権力者の死や自然災害、太平洋戦争など、何度も自粛や中止の憂き目にあっています。

 

江戸時代の中頃には、大干ばつで琵琶湖の水位が3mも下がり、火災防止のために送り火が中止されたこともあったそうです。

火事が何よりも怖かったということでしょう。

 

明治になり急速に近代国家を目指した日本では、祖先の霊や疫病神を迷信とし、明治初年から10年間、祇園祭と五山送り火を禁止しました。

その後再開はされましたが、古式伝統に目を向けなくなっていた当時では公的・私的な援助を受けるのが難しく、資金難に陥った送り火は昭和初期(第二次世界大戦前)までに十山だった送り火は次々となくなり、現在の五山になりました。

戦後、文化財や伝統保護の気運が再び高まるまでは、五山送り火と祇園祭にとって苦難の時代だったと言えるでしょう。

 

もしかすると静かに暮らす黄泉の国の霊達が、「騒がしい現世の人達にその場所を知られたくなくてあえて記録を消している」のではないか、とさえ思える、という人もいます。

真実はどうなんでしょうね?

まとめ

何百年も昔から毎年8月16日に行われて京都で受け継がれてきた伝統行事・五山の送り火のは昔は十山だった?「蛇・一・い・長刀・鈴」幻の送り火についてまとめてきました。

不思議なことに、歴史資料に残っているにもかかわらず、十山のなかから消えた文字の正確な場所がわかっていないのが現状です。

歴史的な謎を解くべく、今も調査が続けられています。

 

現在の五山送り火のそれぞれの文字の意味はこちらから。

五山送り火の文字の意味?「大・妙法・船・左大文字・鳥居」の豆知識

 

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